本ページにはPRが含まれています

印定寺 かつお節の考案者の位牌が祀られているお寺 – 和歌山県印南町

印定寺 和歌山県印南町

印定寺 かつお節の考案者の位牌が祀られているお寺

和歌山県印南町にある浄土宗のお寺「南龍山 印定寺」に行ってきました。読み方は「いんじょうじ」です。南龍山の山号は、紀伊南龍公(紀州藩初代藩主徳川頼宣)より拝領せりと伝えられています。鰹節の考案者である角屋甚太郎の位碑を祀る由緒ある寺院です。

印定寺 和歌山県印南町

もともとは真言宗で弘誓寺と称していましたが、慶長年間に知恩院の満誉僧上により浄土宗に改宗されています。

観音堂

印定寺 和歌山県印南町

印定寺の観音堂は、かつおの豊漁と旅漁の安全を願った当時の船主の建立したといわれています。

角屋悲恋物語

代々庄屋をつとめ印南浦地区きっての財産家であった角屋。鰹節の考案者であった角屋甚太郎の子孫である角屋甚三郎の一人息子与市と角屋に女中として働くヲサナという娘が恋仲になります。時代は封建時代、この縁は許されず、明和7年(1770年)十夜に、二人は印南浜の高岩に身を投じて心中してしまいます。

印定寺 和歌山県印南町 角屋甚太郎

甚太郎は世をはかなみ、印定寺に金二百両、什器などを寄進。二人の永代供養を頼み、財産を処分し、船団を率いて土佐に移住します。以降、角屋の施餓鬼供養が今日まで続いています。昭和の代に、二人供養する比翼塚(ひよくづか)が建立されました。

比翼塚とは、愛し合って亡くなった男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬ったお墓のことです。

印南町はかつお節発祥の地

印南町は「かつお節発祥の地」とされています。角屋甚太郎は、印南町の漁民で、鰹節の製法を発明したといわれています。こちらの碑は国道42号線からも見える印南浜公園に建っています。

慶長の頃、九州、四国に出漁した印南漁民は、土佐清水市の沖にカツオの魚場を発見し、以来毎年10ヵ月もの間、足摺岬の各地に留ってカツオ節を製造したといわれています。

印定寺 かつお節発祥の地 和歌山県印南町

和歌山県は金山寺味噌や醤油の発祥地、かつお節の発祥地として、日本の食文化を支えてきた県とも言えます。高野山や熊野三山が世界遺産に登録されていることからも、古来よりこの和歌山県が大変重要な場所だったことがよく分かります。

宝永南海地震

宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生した南海地震の災害記念碑は全国的に見ても少ないといわれています。その中でm印定寺には2つの災害記念碑が残されています。いずれも十三回忌にあたる享保4年(1719年)に溺死者の供養のために作られたものである。

記念碑の建立が津波襲来の13年後となったことは、当地の復興にそれだけの年月が要したことを物語っています。

印定寺 宝永南海地震津波 災害記念碑

宝永地震から147年後の安政元年(1854年)に再び軟化地震が発生した、この安政軟化地震では印南の人々とは地震発生後、直ちに高台への非難行動に移り津波犠牲者を全く出さない快挙を成し遂げました。この2つの災害記念碑に記された「災害の記憶」が広く浸透し、印南の人々の防災意識を高めていたことを示している。

しかし、安政地震から92年後の昭和南海地震(1946年)では3地震の中で津波が最も小さかったにもかかわらず、16名もの犠牲者を出してしまった。安政地震の成功体験が災害の記憶の伝承を鈍らせたのか、宝永の教訓が昭和には伝わっていなかったようである。私たちはこの災害の記憶を脳裏に刻み、次の世代へ確実に受け継いでいかねばならない。

印南町教育委員会 防災「いなみっ子」未来プロジェクト より引用

駐車場

印定寺にはお寺の東側に7台ほど止められる駐車場がありました。

お寺の詳細情報

名称 南龍山 印定寺(いんじょうじ)
住所 〒649-1534 和歌山県日高郡印南町印南2259
電話番号 0738-42-0147
定休日  
営業時間  
ホームページ  
フェイスブック  
インスタグラム  
ツイッター  
駐車場 無料(約7台)
交通アクセス ■車
阪和自動車道 印南ICから車で約5分

■電車
JRきのくに線 印南駅から徒歩約4分

備考  

※上記内容は訪問時の情報になります。変更になっている場合がありますので、電話、HP等で確認してください。

タイトルとURLをコピーしました